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野沢和弘コラム
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野沢和弘/社会福祉法人 千楽 副理事長
静岡県熱海市出身。1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞入社。いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などを報道する。論説委員(社会保障担当)を11年間務め、2019年10月退社。現在は植草学園大学副学長・教授、一般社団法人スローコミュニケーション代表、東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」主任講師、社会保障審議会障害者部会委員、障害者政策委員会委員なども務める。
重度の知的障害(自閉症)の子がいる。浦安市に住んでいる。
主な著書に「スローコミュニケーション~わかりやすい文章、わかちあう文化」(スローコミュニケーション出版)、「なんとなくは、生きられない。」「障害者のリアル×東大生のリアル」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」「殺さないで~児童虐待という犯罪」(中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)、「福祉を食う~虐待される障害者たち」(毎日新聞社)「なぜ人は虐待するのか」(Sプランニング)など。
歴代最長の安倍晋三政権が終わり、新しい時代がやってくる? そんな期待感をあまり感じない政権交代である。どんな政権になろうとも、人口減少と高齢化は変わらない。この先の社会保障について私たちはどんな展望を見出したらよいのだろうか。
風のない夜の花火
何か目新しいキャッチフレーズを政権が打ち出すと、条件反射的にうさん臭さを感じてしまうようになった。「アベノミクス・3本の矢」「女性が輝く社会」「待機児童ゼロ」「1億総活躍」「全世代型社会保障」。次々と打ち上げては、成果が出たのかどうかわからないまま、新たなキャッチフレーズが登場する。風のない夜の打ち上げ花火みたいで、前の花火の煙が残っているので次の花火がよく見えず、音だけが威勢よく聞こえる。「希望出生率1.8」というのもあった。出生率は2.01以上ないと人口は維持できない。最近の日本は1.4前後にとどまり、人口が急速に減っているのだ。せめて、急カーブを緩めようというので打ち出したのが「1.8」である。
ところが、厚労省が発表した最新の人口動態によると、19年に生まれた子どもは計86万5234人で、過去最少を更新した。前年より5万人以上も少ない。90万人前後しか生まれない時代での5万減は深刻な数字だ。それだけ未来の子どもを産む分母(現役世代の女性の数)が少なくなるわけで、加速度的に人口は減る。
合計特殊出生率は1.36。1.8にははるかに及ばず、前年より0.06ポイント後退した。たとえ出生率が上がっても、中長期的に分母が減っていくのが確定しているので、生まれてくる子どもは簡単には増えない。ましてや出生率そのものが下がったのでは人口の急降下はさらに危機的な状況になったことを意味する。
今の水準の人口減が進むと、90年後の日本の人口は多くても6000万人台、少ないと3000万人台になるといわれている。このままでは低い方へまっしぐらに進みそうだ。
人口減少を「国難」と認識し、国を挙げて取り組むとしていた安倍政権の政策は、退陣とともに無残な状態をさらすことになった。
安倍批判だけでいいのか
いや、安倍政権を責めるばかりでは問題は解決しない。安倍批判の記事や論説ばかりの新聞を見ていたら、なんとなくそう思うようになった。
経済や文化のグローバル化の影響を受けて私たちのライフスタイルや価値観は大きく変わってきた。それに対して一国の政府が行う政策の影響力は相対的に弱くなっている。
現役世代の男性の非正規雇用が増え、経済的に余裕がないために結婚や出産をあきらめている人がいる。最低賃金を決めたり、同一労働同一賃金を企業に義務付けたりするのは政府の権限で行えることであり、それを怠ってきた責任は重い。
しかし、企業が国際競争にさらされる中で、終身雇用や年功賃金を柱とする日本型雇用の慣行を変えることに、政府はどこまで口出しできるのだろうか。残業や出張や転勤を嫌って、正社員ではない働き方を求める若者はたくさんいる。彼らを無理やり正社員にすることはできない。
働きながら女性が子どもを産み育てられるようにすることはとても大事だ。保育所を必要なだけ確保し、休業中の生活保障、職場復帰後に不利な扱いをされないような法律やルールを作るのは政府の責任だろう。
ただ、妊娠・出産・子育てのために一定期間は女性あるいは夫婦のどちらかが職場を離れざるを得ない。0歳児から保育所に預けて復帰する女性もいるが、スウェーデンなど欧州諸国では出産後1年近くは仕事を休んで家庭で育児をする女性が多い。2人以上産もうと思ったら、断続的に数年間は制限された働き方をせざるを得ないだろう。
一方、社会で活躍する女性は増えている。仕事にやりがいを感じるほど、結婚を遅らせたり未婚を選択したりする人は多くなるだろう。保育所を増やしても、晩婚化を劇的に変えることはできないと思う。結婚や出産をしない生き方を選ぶ女性を政府が翻意させることなどできはしない。やるべきでもないだろう。
社会保障だけではない。新型コロナウイルスのパンデミックや地球温暖化など、世界的な難問を解決するのは一国の政府では小さすぎる。一方、多様化する人々のライフスタイルに対応した社会保障を整えることも政府は容易にできない。それなのに、私たちは何もかも政府に責任を求めようとし過ぎていないだろうか。
安倍退陣の発表後の朝日新聞社の世論調査で、第2次安倍政権の実績評価を聞くと計71%が「評価する」と答えた。政権を去る安部氏への餞別の意味というより、批判ばかりのマスコミへの潜在的な批判票がかなり含まれているように私には思える。
政治に過度な期待は持たない
国民が政治に期待し過ぎるから、政治はそれに応えようとして妙なキャッチフレーズを打ち上げる。
地域の課題は地域住民が自分たちで解決することもこれからは必要になってくると思う。それを政府が打ち出したのが「地域共生社会」という政策だ。「わが事・丸ごと」というキャッチフレーズを厚労省が掲げたとき、「政府の責任放棄だ」との批判が障害者団体から上がった。厚労省はあれこれ説明を繰り返したが、それでも誤解されるということで「わが事・丸ごと」という言葉自体を使わなくなった。
しかし、正直に言おう。政府は人々の「暮らしの安心感」に責任を持てなくなった。批判されても、それを認めるべきだと思う。
社会保障の給付費総額は18年度に121.3兆円だったのが、40年度には約190兆円になると見込まれている。対GDP比では21.5%から24%へ増えるだけなので、見かけの額ほどではないと言われているが、現在ですら税や保険料だけでは賄えず借金で穴埋めしてきたのだ。国と地方の長期債務は現在1107兆円でGDPの2倍近くにも上る。40年度には2700兆円にも膨れ上がる。
現役世代の人口減少によって医療や福祉で働く人も大幅に不足する。これで、公的な社会保障に安心感を持てというのは無理な話だ。
それ以上に難題なのは、公的な社会保障制度をどれだけ拡充したとしても、解決できない問題に私たちが直面していることだ。孤独死、自殺、虐待、ひきこもり、8050、ゴミ屋敷、特殊詐欺被害などを考えるにつけ、家族や近隣、会社の同僚や友人関係などによって支えられてきた安心感や充足感、生きがいのようなものは、社会保障の制度やシステムでは代替できないように感じる。政治が繰り出すキャッチフレーズに期待してもむなしくなるだけだ。住民が主体的に「暮らしの安心」を取り戻すことを考えなくてはいけない。
地域共生社会がめざすもの
かつての濃密な人間関係を私たちが欲しているとも思えない。相互の監視と干渉が鬱陶しくて都会の一人暮らしを求めた人も多かったはずである。弱ったとき(人)、困ったとき(人)には支えの手が自然に伸び、それ以外は必要以上に干渉しない関係。自らSOSを発することのできない子どもや障害者、認知症の人などへの複合的な支援。個々の尊厳とプライバシーを守りながら、どうやってそうした関係や支援を作ることができるかを考えるべきだろう。
住民が自分たちの地域の課題を自ら見つけ解決に向けて取り組むことを地域共生社会は目指している。対象別の相談支援を包括的にする「断らない相談支援」、安易に自立を求めずに寄り添い続ける「伴走型支援」などを厚労省は打ち出している。そのための法改正や規制緩和、財源確保などは政府の役割である。
その上で、地域共生の主役はあくまで住民であり、障害者や困窮者など当事者であることを私たちは自覚すべきだ。隣人の困りごとに対して、やむにやまれぬ思いで手を差し伸べる。対価を伴わない助けや支援に「ありがとう」という言葉で返す。制度やシステムではかなえられない充足感がそこにあるはずだ。
第一次産業から雇用労働が主流になった時代に国民皆保険・皆年金が整備され、家族内の支え合い機能が弱体化したのに伴い公的福祉サービスが拡充された。人々の暮らしや産業構造の変化に伴って社会保障のカタチが変化するのは必然だ。孤立や疎外が不安を広げている時代にあった新しい社会保障を見つけなければならない。